2025年10月18日(土)

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聖書一日一章    ヨハネの福音書 8章

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アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。(58節)

ここでは、キリストが、姦淫を犯した女を石打ちにすべきかどうかという質問に、「罪のない者が真っ先に石を投げなさい」と答えられたこと、ご自身がどんな存在であるかということをめぐっての論争を記しています。

さて、この章には、キリストが言われた言葉で、3箇所不思議な表現があります。「わたしはある」という表現です。まず、24節。「わたしが『わたしがある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになる。」次に、28節。「あなたがたが人の子を上げたとき、わたしが『わたしはある』であることを知るようになります。」そして、58節。「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」文章としては変なので、「そのようなものである」とか「います」というふうに訳する聖書もあります。前の新改訳もそのように訳していました。しかし、ギリシャ語原文は、そういう表現なのです。そう訳した場合、意味がよくわからないのですが、そう聞いてピンと来る箇所が旧約聖書にあるのです。出エジプト記3章14節です。モーセが神にその名を尋ねたとき、神は、「わたしは『わたしはある』という者である」と答えられました。

「ある」という述語はあらゆる述語の中で最も基本的かつ単純な述語ですが、実は多くのことを語っています。神がどんな性質もどんな能力も持っておられるので、特徴としてそのうちのいくつかを挙げることができず、すべてに共通した「ある」と言われたということでしょう。しかも、この「ある」は、過去に「あった」でもなく、今だけ「ある」でもなく、ある時から「ある」でもなく、永遠に「ある」なので、その永遠性も表しています。つまり、神の全能性と永遠性を表す表現なのです。

そのことを頭に置いて、キリストがそう言われたことを考えると、聞いた人がひっくり返るほど大それたことであることがわかります。つまり、ご自身が全能、永遠で、神と等しい存在だということです。それを聞いたパリサイ派の人たちが、悪霊につかれているとののしったのも当然です。しかし、私たちはそんな大それたことを信じているのです。そして、そのことが私たちの永遠の救いの土台になっています。よくも信じることができたものです。信じることができたことを感謝しましょう。

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