2025年10月19日(日)
_____________________________________________________________________________
聖書一日一章 ヨハネの福音書 9章
_____________________________________________________________________________
目の見えない者が見えるようになるためです。(39節)
キリストが弟子たちとエルサレムにおられたとき、通りで物乞いをしている盲目の男に目をとめられました。そのとき、弟子たちが「この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか」と尋ねました。イスラエルにも「親の因果が子に報い」という考えがあったことに驚きます。キリストは、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません」と、その考えを否定し、「この人に神のわざが現れるためです」と言われました。盲目に生まれついた理由をあれこれ言うよりも、その人に神の癒しの奇跡が起こり、神がほめたたえられるためという良い目的を示されました。そして、地面に唾をし、泥を作り、彼の目に塗り、シロアムの池で洗うように命じられ、彼がその通りにすると、見えるようになりました。
しかし、ユダヤ人の宗教指導者たちは、その奇跡を認めませんでした。盲目で生まれたのは罪人だからで、キリストも安息日に癒しを行って律法を破った罪人で、そんな人たちに神の奇跡が起こるはずがないというわけです。そして、ほんとうに盲目だったのかとか、見えている人は別人ではないのかとか、何かトリックがあるのではないのかと疑い、両親を呼び出したり、本当のことを言えと迫ったりし、ついに町の外に追い出しました。
キリストはその人を見つけ出し、ご自身が「人の子」、これは当時よく知られていた表現で、世の終わりに現れるさばき主を指しますが、それであることをはっきり知らせ、その人は信仰を告白し、救いの確信を得ました。そして、「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです」と言われました。宗教指導者たちは、自分たちはよく知っている、何が正しいかもよく知っている、つまり自分たちはよく見えると思っていましたが、事実が見えていませんでした。盲目で生まれ人は、目が見えるようになったばかりか、心の目も見えるようになり、神とキリストと救いに関する真実を知りました。私たちは見えると思っていましたが、ほんとうは心の目が見えていませんでした。しかし、キリストに心の目を見えるようにしていただきました。感謝です。
テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944 鷹取 裕成
