2025年10月22日(水)

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聖書一日一章    ヨハネの福音書 12章

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死ぬなら、豊かな実を結びます。(24節)

キリストが十字架につけられる一週間ほど前に、エルサレム近郊のべタニアの、マルタとマリヤと生き返ったラザロの家に行かれ、マリヤから高価な香油を注がれたこと、ろばの子に乗ってエルサレムに入られたこと、栄光の死の時が来たことを自覚されると、天から声が聞こえたことを記しています。

さて、キリストは24節で言われます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」たしかに、一粒の麦が地に落ちて土に埋まり、あたかも死んだようになれば、やがて芽が出て育ち、多くの実を結びます。これは直接的にはご自身のことでしょう。キリストは、神を愛し、ご自身を信じる人々、これから信じる人々を愛し、彼らを罪と罰から解放するために、ご自身が彼らの代わりに死に、彼らが永遠のいのちを受けられるようにされるのです。同時に、これはキリストの忠実なしもべにも当てはまることでしょう。平穏でおれるに越したことはありませんが、たとえ殉教することがあっても、結果、多くの人が救われることになることは、歴史を見れば明らかです。

ただ、これは自己犠牲の道ではないと思います。というのは、キリストはたしかにいのちを捨てられますが、3日目に復活することも、天の父なる神のもとへ昇ることも知っておられました。ですから、ご自身も、豊かに報いられるのです。初期のクリスチャンたちは、「地所や家を所有している者はみな、それを売り、その金が、必要に応じてそれぞれに分け与えられた」とあるように、文字通りすべてを捨てていましたし、いのちも捨てる覚悟でした。中にはステパノのように実際に殉教する人もいました。しかし、ほとんどの人は、実際には、いのちを捨てることはなく、かえって、キリストにある兄弟姉妹との家族以上の信仰の家族が与えられ、分かち合いの中で少しも乏しいことがなく、その伝道の働きが多くの実を結び、多くの感動と喜びを経験し、地上でも大いに幸せだったのではないでしょうか。その上に、神の国での永遠の至福の人生が待っているのですから、これ以上はないように思います。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成