2025年10月23日(木)

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聖書一日一章    ヨハネの福音書 13章

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神も人の子に栄光を与えてくださいます。(32節)

キリストが最後の晩餐で、弟子たちの足を洗われたこと、互いに足を洗うように教えられたこと、イスカリオテのユダの裏切りを弟子たちに明かされたこと、ペテロに彼が3度ご自身を否認すると予告されたことを記しています。

さて、キリストは32節で、「神が人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます」と言われます。神が人の子つまりキリストによって栄光を受けられるというのが、キリストの十字架の死を指しているのは、明らかです。とはいえ、キリストの十字架の死で、なぜ神が栄光を受けられるのかです。死ぬこと自体が神の栄光になるはずがありません。それが神の栄光になるのは、一つは、キリストの十字架の死が人間の滅びを防ぐからでしょう。人間が滅びることは人間を造られた神の失敗なので、キリストの身代わりの死がその滅びを防ぐなら、失敗の反対の栄光になるからです。一つは、キリストが15章13節で、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」と言われますが、それが無上の愛の行いであり、キリストの栄光だからです。キリストはその無上の愛の行いを、神の指示で、かつ神と一致した思いでされるので、それは神の無上の愛でもあり、神の栄光になります。

そのように神が栄光を受けられると、神も人の子つまりキリストに栄光を与えられるというのですが、これはキリストを復活させ、昇天させ、天の王座に着けられることでしょう。このことは、キリストだけでなく、私たちにも当てはまると思います。つまり、神が栄光を受けられるようなことをすれば、神も私たちに栄光を与えてくださるということです。34節では、「互いに愛し合いなさい」と言われます。もし私たちにもともと自分と同じように相手を愛する愛があれば、互いに愛し合っても、それは私たちがすばらしいということで、神の栄光にはなりません。しかし、私たちにはそんな愛がないので、もし互いに愛し合うことができれば、それはキリストの救いの結果で、神が栄光を受けられることになります。そうすると、神は私たちに栄光を与えてくださるに違いありません。

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