2025年10月25日(土)

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聖書一日一章    ヨハネの福音書 15章

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父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。

(9節)

キリストが最後の晩餐で弟子たちに話されたことです。5節では、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまるなら、その人は多くの実を結びます」と言われます。13節では、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」と言われます。16節では、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました」と言われます。

さて、9節では、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました」と言われます。キリストは弟子たちを愛しておられ、とくにこの夜はその愛を表されました。弟子たちはみなその愛を感じていました。その愛について、「父がわたしを愛されたように」と言われます。この「ように」は、動機と模範を指していると思います。つまり、父なる神に愛され満たされたので、ご自身も愛そうと思われたことと、父なる神が愛されたその深さ、純粋さ、熱さに習って、ご自身も愛するということでしょう。もっとも、キリストは愛されなければ愛せないということはないはずです。キリストご自身が愛の人です。しかし、キリストは5章で、「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何も行なうことができません」と言われました。父なる神に対しては、学ぶ人、聴き従う人なのです。

キリストでさえ、父なる神に愛されたことが愛する動機であり模範であるなら、私たちはなおさらそうです。ですから12節、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合う」ようにと言われるのです。私たちはもともと自己愛、つまり自分と自分の好きなものを愛することしかできない者です。互いに愛し合うように教えられてもできません。しかし、キリストは教えるより私たちを愛してくださいます。それも、あなたのためにはいのちを捨ててもよいくらいの熱さで愛してくださいます。私たちは愛したいと思いながらも愛せない者ですが、キリストの愛をもっともっと感じて、心が満たされれば、もう少し愛することができるのではないかと思います。

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