2025年10月30日(木)
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聖書一日一章 ヨハネの福音書 20章
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平安があなたがたにあるように。(19節)
キリストが十字架で死なれて3日目の早朝、弟子たちが墓に行ったところ、遺体がなかったこと、復活されたキリストが墓にいたマグダラのマリアに現れたこと、夕方、部屋にいた弟子たちに現れたこと、1週間後、そこにいなくて疑ったトマスも含めた弟子たちに現れたことを記しています。
さて、19節には、キリストが復活された日の夕方、弟子たちがいた家では、「ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた」とあります。当時は明るいうちから鍵をかけたりしなかったし、男が何人もいる所ではなおさらでした。彼らは反対者たちの襲撃をよほど恐れていたようです。キリストが復活されたのに、なぜそんなに恐れるのかと思いますが、弟子たちのほとんどは復活を信じていなかったのでしょう。そんな弟子たちのところに、キリストが現れ、真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われました。キリストは弟子たちの恐れを知り、彼らに平安を祈られました。キリストが祈られた限り、平安は確実に彼らの心に宿ったことでしょう。私たちはみな恐れや不安を持っています。それで、私たちは、神に「どうか守ってください」と祈ります。キリストのみ名によって祈ると、キリストが神にとりなしてくださり、神は確実に守ってくださいます。
ところで、私は19節を読んで、キリストが「彼らの真ん中に立」たれたことで、その瞬間、平安が彼らに宿ったのではないかと思いました。私たちは、キリストが生きておられ、信じる人とともにおられることを信じています。キリストがともにおられれば、平安が私たちに確実に宿ることでしょう。しかし、私たちは、おぼろげながらしかそのことを感じていないのではないでしょうか。どうすればもっとリアルに感じることができるのでしょうか。一つは、それは聖霊の与えられる感覚ですし、信じる人にはみな聖霊が与えられているのですから、聖霊がきっとその感覚を増進させてくださることでしょう。同時に、キリストが立たれたのは、彼らが集まっている真ん中でした。私たちも信じる者が集まるときに、キリストがともにおられるということを強く感じるのではないでしょうか。集まることは大切です。
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