2025年11月3日(月)
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聖書一日一章 使徒の働き 3章
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いのちの君を殺したのです。(15節)
ペンテコステの日に聖霊が下った後、しばらくして、ペテロとヨハネが祈りのために神殿に行った時のことです。門の所に足の不自由な人がいて、施しを求めましたが、ペテロがキリストの名によって立ち上がるように命じると、躍り上がって立ち、歩きながら神を賛美しました。それを見た人々は驚き、駆け寄って来たので、ペテロは、キリストの名が癒したこと、そのキリストを人々が殺したが、神がよみがえらせられたこと、今は天におられるが、やがて再臨されることを話し、悔い改めるように勧めました。
さて、ペテロは15節で人々に「(あなたがたは)いのちの君を殺したのです」と言いました。キリストのことを「いのちの君」と呼んでいるのですが、永遠のいのちを与える神のみ子という意味でしょう。よく知られたヨハネの福音書3章16節は、キリストが神のひとり子で、神が人々に永遠のいのちを与えるために遣わされた方と教えています。そんな永遠のいのちを与える方を殺すとは、とんでもないことです。永遠のいのちを得る唯一の道をみずから断ち切ることにほかなりません。それは、浄水場が町の人々に生きるための必要な水を供給しているのに、町の人々自身がその浄水場を壊すようなことです。あるいは、生命維持装置によって何とか生きている重症の患者が、その生命維持装置から自分の体に延びているパイプを自分で引きちぎってしまうようなことです。エルサレムの人々は、永遠のいのちを得ることができる唯一の道をみずから断ち切ってしまいました。そんな愚かなことをしてしまったのです。現在も多くの人がキリストに反抗していますが、永遠のいのちを与えることができる唯一の方を拒否するとは、何とも悲しいことです。
そのように、エルサレムの人々が「いのちの君」を殺してしまうと、彼らだけでなく、すべての人にとって永遠のいのちを得る道が閉ざされてしまうところでした。しかし、神がキリストをよみがえらせられたので、その道は閉ざされずにすみました。「いのちの君」キリストは今も生きておられ、求める人に永遠のいのちを与えられるので、その道は開かれています。
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