2025年12月1日(月)

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聖書一日一章    ローマ人への手紙 3章

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価なしに義と認められるからです。(24節)

パウロは1章で、異邦人の罪深さを述べ、2章で、ユダヤ人が律法を持っていると誇りながら律法を行っていない実態を述べました。ここでは、ユダヤ人が神の言葉をゆだねられてきたことはすぐれた点だが、そのことで特別扱いされることはないと言い、さらに、異邦人であれ、ユダヤ人であれ、神に義と認められる人はだれもいないと断言します。それなら絶望ですが、そこで、キリストを信じる信仰によって義と認められる道、救いの道を示します。

さて、このように信仰によって義と認められることを、24節では、「価なしに義と認められる」と言います。それは信仰が「価なし」だということです。信じたということで、神から、よくやったと評価してもらえないのでしょうか。おそらく、アブラハムのような自分の子をささげるような信仰であれば、あるいはヨシュアのような雄々しい信仰であれば、評価されるでしょう。しかし、キリストを救い主だと単純に信じるだけなら、だれでも何の労もなくできることですから、評価されないのでしょう。

それにしても、価なしに義と認めることは、神の人間に対するお取り扱いの正しさに反しないのでしょうか。もし一部の人たちだけ、たとえばある国の人たちだけとか、ある身分の人たちだけ価なしに義と認めるなら、不公平で、神の公平性に反するでしょう。しかし、価なしに義と認めることは、すべての人に提供されているので、その問題はありません。

では、だれでもそんなに簡単に義と認めるなら、義の安売りであり、義の価値自体を地に落としてしまわないでしょうか。義と認めることだけをどんどんしていけば、そうなるでしょう。しかし、キリストはそんなことはされません。キリストは、ご自身を信じた人を価なしに義と認めると同時に、その人に対して責任を持ち、「わたしがこの人を責任を持って神の国にふさわしく整えます」と宣言されるのです。そして、その人に聖霊を注ぎ、聖霊によって整えられるのです。私たちは、信仰によって義と認められた上で、一生続く人間性変革コースを受けさせられるようなものです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944 鷹取 裕成