2025年12月4日(木)
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聖書一日一章 ローマ人への手紙 6章
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今では恥ずかしく思っているものです。(21節)
パウロはここでは、義と認められた人は、キリストが十字架で死なれた時にともに死に、キリストが復活された時にともに生きたのだと言います。それゆえ、以前の罪深い生活にも死んだので、その生活を捨て、新しい生活をするように、罪の奴隷ではなく、神の奴隷として生きるように勧めます。
さて、21節では、以前の生き方について、「ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです」と言います。ここでパウロは、以前の生き方で実が得られなかったと言っているのではありません。得られたが、「今では恥ずかしく思っている」実だけだったと言うのです。その実とはどんな実でしょうか。以前の生き方で求めていたものは、裕福な生活、誇れる地位、夢のような結婚、名声、人気、好きなことだけして過ごす優雅な生活といったところでしょう。そして、ひたすら努力し、ある程度手に入れた人も少なくないでしょう。それはある意味で実です。
それをなぜ恥ずかしく思っているのでしょうか。一つは、手に入れる上でのやり方のためです。良いものはみんなが欲しいので、競争が激しく、競争を勝ち抜くために、ずるいことや汚いことをしてしまうでしょう。また、何かを手に入れようとすると、必ず邪魔が入ります。そんな邪魔に対して、怒りや憎しみやいら立ちを感じるでしょう。力ずくで、あるいは姑息なやり方で、それを排除しようと思うかもしれません。また、なかなか思うように手に入らないので、何かに当たったり、自暴自棄になったり、酒に走ったりするでしょう。そのため、その実は汚れがいっぱいついているのですが、それに気づくからでしょう。一つは、その実が、永遠に価値のあるものではなく、どんどん色あせ、腐っていき、なくなっていくものであることに気づくからでしょう。
しかし、私たちは、もっとすばらしい、悔いのない、永遠に朽ちない実を結ぶことができます。キリストはヨハネの福音書15章5節で言われました。「人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」
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