2025年12月7日(日)

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聖書一日一章    ローマ人への手紙 9章

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神は人をみこころのままにあわれまれる。(18節)

パウロはこの章から11章まで、イスラエル人について、その先祖アブラハムが神から子孫永劫の祝福を約束されたのに、現在イスラエル人の多くが拒絶している現状を、どう受けとめればよいのかを論じます。この問題は、とくにパウロにとって深刻でした。というのは、彼は同胞イスラエル人を、彼らのために自分がのろわれた者になってもよいと言うほど愛していたからです。この章では、アブラハムへの約束は必ずしも肉の子孫に対するものではなく、約束が反故になったわけではないこと、神はみ心のままに、ある人をご自身を求めるようにし、ある人を頑なにされるが、神にはその自由があると言います。

さて、15節では、出エジプト記33章19節の、「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ」というみ言葉を引用します。そして、18節で、「神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです」と言います。神はみ心のままに、あわれもうと思う者をあわれんで、ご自身を求めご自身に聞く柔らかい心を持たせ、頑なにしようと思う者を頑なにされるというのです。このことは、一見、冷たくあるいは横暴に思えますが、それは全能の神である限り当たり前のことです。この世界で起こるあらゆることは神の永遠のご計画によることで、そのご計画において、神を求めるように定められている人は神を求め、頑なになるように定められている人は頑なになるのです。

しかし、それは天での神の永遠のご計画の話で、この世界での話ではありません。この世界では、神を求めようとする人と頑なになる人が決まっているわけではありません。だれでも、神を求めようと思えば、求めることができ、神を見出して祝福されます。神を求めようと思うのに、そうならないように決まっているので、どうしてもできないということはありません。それどころか、求めるなら、神は道を照らし、み手を指し伸べて導いてくださいます。すべての人が神を求め、見出すことが、神のみ心です。矛盾しているようですが、神と人間との無限の違いによる仕方のない矛盾です。

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