2025年12月8日(月)
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聖書一日一章 ローマ人への手紙 10章
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律法が目指すものはキリストです。(4節)
パウロはここでは、イスラエル人は神に熱心だったが、義と認められなかった、しかし、今やキリストによって、だれでも義と認められる、だから、キリストを宣べ伝えよう、それはすばらしいことだと言います。
さて、4節では、「律法が目指すものはキリストです」と言います。パウロは、他の箇所では、律法をキリストと対立するものとして語っているのに、ここでは、律法の目指すものとキリストが一致すると言うのです。
まず、「律法」とは、旧約聖書の中で、神が人々の礼拝や行いや生活について命じておられることの全体です。後に律法学者という人たちが出て来て、そのみ言葉を体系的にまとめたり、解釈したり、具体的なことに適用するために細かい規定を作ったりしました。キリスト時代のパリサイ派の人々は、それらも含めて「律法」と呼んでいましたが、キリストは、「自分たちの言い伝えのために神の言葉を無にしています」と言って非難されました。ですから、パウロが「律法」と呼んでいるのは、それらを含まない、神が人々の礼拝や行いや生活について命じておられることの全体でしょう。
パウロはそのような「律法」の「目指すものはキリストです」と言うのです。その意味は、一つは、「律法」が人間はこのようにあるべきだと教えているその理想像がキリストだということです。キリストのような人になり、そのような生き方をすることを「律法」が教えているのです。
一つは、律法自体はすばらしいものでも、それでは人間を良くすることも救うこともできず、人間がいかに罪深いか、いかに絶望的かを意識させるだけです。そのため、人間が救われるためには、もっとすぐれた何かが必要であることをクローズアップします。つまり、キリストが必要であることをクローズアップするのです。その意味で、キリストを指していると言えます。
一つは、キリストを信じ、聖霊を与えられ、新しく生まれた人、つまり救われた人は、キリストのように生きたいと思うでしょう。その、キリストのように生きたいという意欲、それこそが「律法」です。
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