2025年12月17日(水)
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聖書一日一章 コリント人への手紙第一 3章
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御霊に属する人に対するようには語ることができない。(1節)
パウロはここでは、コリントのクリスチャンたちが「パウロ派」や「アポロ派」などに分かれていることを問題にし、自分もアポロも、先に信仰を植えたか後で育てたかの違いはあれ、用いられただけで、成長させたのは神だと言います。さらに、自分は教会の土台を据えたが、現在の指導者たちは、その土台の上に試練に耐える家を建てなければならないと励まします。
さて、1節で、「私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました」と言います。パウロが「御霊に属する人」に対するように語ることができなかったと残念がっているその「御霊に属する人」とは、どんな人でしょうか。それを知るために、正反対の「肉に属する人」がどんな人かを考えてみましょう。「肉に属する人」は、3節では、ねたみや争いをその特徴として挙げています。つまり、分派に分かれ、他のグループが賞賛されたり、人数が増えたりするとねたみ、自分のグループが悪く言われたり、人を引き抜かれたりすると怒る、そんな人々です。なぜか人ごととは思えません。ただ、「キリストにある幼子」と言い直していますので、救われていないのではなく、成長していないだけで、成長しなければならないのです。
それでは、どうすれば「御霊に属する人」になれるのでしょうか。ねたんだり争ったりしないよう我慢するのでしょうか。そんなことは、とても我慢できませんし、我慢していると、いつか爆発するでしょう。ねたんだり争ったりしないように我慢するよりも、むしろ自分の生き方、ものの見方が、聖霊によって根底から変えられ、すべてのことを主のわざとして見るようになることが必要かと思います。そうすれば、自分のことも人のことも、良いことも悪いことも、主がなさっていることなので、すべてに良い目的があると思えるし、だれかが悪いことをしてきても、それも主のご計画の内なので、必ず備えがあると思えます。うまく行けば、主がしてくださったと感じ、喜び、自然に主に感謝するでしょう。そんなふうに、すべてを主のわざと見ることができるようになった人こそ、「御霊に属する人」だと思います。
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