2026年1月4日(日)

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聖書一日一章    コリント人への手紙第二 5章

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見よ、すべてが新しくなりました。(17節)

パウロはここでは、地上の肉体を早く脱ぎ、新しい体を着たいという願いを述べ、キリストによって新しく生まれた人々は、地上でも新しい生き方をするように励まし、そういう人々は神と人々との和解の使者だと言います。

さて、17節では、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と言います。キリストは、「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われたので、神の国に入るためには、新しく生まれていなければなりません。同時に、ご自分を「信じる者は永遠のいのちを持っています」と言われたので、キリストを信じる人は、神の国を見ることが確実です。ということは新しく生まれていることになります。つまり、「キリストのうちにあるなら」、「新しく造られた者」なのです。そして、「新しく造られた者」なら、「古いもの」は残っていず、「すべてが新しく」なったはずです。

しかし、パウロがここでそのことをクリスチャンたちに言っているのは、多くのクリスチャンにそのことの自覚が足りなかったからでしょう。見せかけのクリスチャンならともかく、キリストをほんとうに信じていて、新しく造られていて、その劇的な変化を経験しているのに、なぜ自覚が足りないのでしょうか。それは、自分を見る見方が、16節で言う「肉にしたがって」だからです。「肉にしたがって」ということは、見えるところによってということです。パウロはかつてキリストを「肉にしたがって」、つまり大工の子だとか、学がないとか、田舎町ナザレの出身だとか、見えるところによって知っていました。しかし、それは間違っていたのです。それで今後、キリストはもちろん、だれに対しても、「肉にしたがって」知ろうとしないと決心しているのです。キリストをほんとうに信じていて新しく造られていても、見えるところはそんなに変わっていません。ですから、自分を見るにしても他のクリスチャンを見るにしても、「肉にしたがって」見るならば、失望しかありません。私たちは自分もほかのクリスチャンも、見えるところによってではなく、見えない本質を「霊にしたがって」見ましょう。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成