2026年1月11日(日)

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聖書一日一章    コリント人への手紙第二 12章

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肉体を離れてであったのか、私は知りません。(3節)

パウロは、コリントのクリスチャンたちに、彼らの中に入り込んできた異なる信仰を広める人々を警戒するように話してきましたが、彼らが自分たちの労苦を誇り、人々が惑わされそうなので、パウロも仕方なしに自分の労苦を誇りました。ここでは、ほんとうに誇るべきなのはこういう人だと言って、天に上げられる幻を見た人のことを話します。「一人の人」と言っていますが、7節を見ると、パウロ自身のことだとわかります。その幻があまりにもすばらしいので、高慢にならないように肉体に一つの障害を与えられたと言います。それを取り除いてくださいと祈ったところ、キリストが、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたので、自分は弱さを誇ると言うのです。後半では、その異なる信仰を持つ人々がパウロのことをコリントの人々からお金を搾り取っていると批判していたので、これまでも負担をかけたことがなかったし、今、3度目に訪問しようとしているが、負担はかけないと言います。

さて、2節と3節で、天に上げられて天の光景を見る幻を見たことについて、「肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません」と言います。パウロはさらっとそう言っていますが、現代人の多くは、人間を高度な生物と考えていて、人間が高度な生物だとすると、肉体こそ自分であり、肉体を離れての自分などは考えられないでしょう。そういう人にとっては、肉体が死ぬことは、自分そのものが死ぬことであり、自分すべての終わりです。しかし、私たちはそうは考えません。自分というのは、肉体に宿っている魂あるいは霊だと考えます。肉体は自分どころか、自分が使っている道具あるいは住まいに過ぎません。ですから、肉体が死んでも自分は終わりません。肉体が死んで、自分が肉体から離れると、自分はどこをさまようのか心配ですが、キリストを信じているなら、自分はキリストと結ばれていて、肉体から離れても、キリストから離れることはありません。いずれ、キリストが新しい肉体を与えてくださって、復活し、パラダイスで、自分の望むままに生きることができます。

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