2026年1月18日(日)

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聖書一日一章    ガラテヤ人への手紙 6章

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互いの重荷を負い合いなさい。(2節)

パウロは最後に、互いに助け合うことを勧め、この手紙で強調してきた「割礼派」に惑わされないようにということを重ねて言います。

さて、2節では、「互いの重荷を負い合いなさい」と言います。「互いの重荷を負い合」うことの最も素朴な形は、文字通り、重い荷物を持って息を切らせている人に荷物を持ってあげること、一人では持てない重い物をいっしょに持つことです。もっと広い意味では、だれかが病気などでその人の務めを果たせないときに、代わってあげることです。私たちは、明日何が起こるかわからない頼りない存在ですので、このような意味で重荷を負ってもらわなければやって行けません。さらに、家庭も地域社会も教会もみな共同体ですが、共同体は「互いの重荷を負い合」うことで成り立っています。私たちはそれぞれできることが限られている、というか、ほんのわずかです。多くのことはだれかが「重荷を負」ってくれているので、支障なく生活できています。教会も、神が一人一人に賜物と務めを与えておられ、それぞれがその「重荷を負」っているので、皆が礼拝や交わりを享受するのことができるのです。

さらに、パウロはここでは、クリスチャンの間でしかないような「互いの重荷を負い合」う仕方を言っています。1節で、「もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、柔和な心でその人を正してあげなさい」と言います。普通なら、過ちを犯した人に対しては、その過ちを責め、嫌い、見下げ、付き合いをやめるところです。しかし、その人を切り捨てず、その人が過ちを改め、神に祝福される道に戻れるように、祈り、正し、支えるようにと言うのです。つまり、過ち、罪、醜さという重荷を負うということです。パウロがクリスチャンたちにそのように勧めるのは、クリスチャンが罪深く過ちの多い者であることを自覚しているからです。また、自分の罪や過ちをキリストが身代わりに負ってくださったことを信じているからです。その自覚と信仰を促すために、4節で言います。「それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分にだけは誇ることができても、ほかの人には誇ることができなくなるでしょう。」

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