2026年1月29日(木)

_____________________________________________________________________________

聖書一日一章    コロサイ人への手紙 1章

_____________________________________________________________________________

御子のために造られました。(16節)

この手紙はパウロが小アジアの内陸にある町コロサイのクリスチャンたちに書き送ったものです。コロサイはパウロが第三次伝道旅行でエペソに長く滞在していたときに足を延ばして伝道したと考えられます。ここでは、福音のすばらしさ、とくにキリストの偉大さ、コロサイのクリスチャンたちがすでに神と和解していること、パウロ自身の使命について語っています。

さて、心にとまったのは、16節の、「万物は御子によって造られ、御子のために造られました」という言葉です。これが、「神によって、神のために造られました」であれば、何の疑問もありません。神は万物の創造者であり、万物の存在の目的だからです。そうではなく、み子キリストによって、み子キリストのために造られたと言うのが、とても意外です。それでも、前半の、「御子によって造られ」たのほうは、ヨハネの福音書1章3節に、キリストを指して、「すべてのものは、この方によって造られた」とありますし、神がみ子キリストと共同で造られたと考えれば、納得できます。

しかし、み子キリストのために造られたというのは、ひっかかります。どう考えればよいのでしょうか。万物はほんとうに、神のためではなく、み子キリストのために造られたのでしょうか。この点について、へブル人への手紙1章2節の「神は御子を万物の相続者と定め」られたという言葉が鍵になりました。み子キリストが万物の相続者であれば、神は万物を最終的にみ子キリストに与えるおつもりで造られたのです。それは、み子キリストのために造られたことにほかなりません。しかもいっしょに造られたのです。

こんなことを想像してみてください。ある人に鉄道模型が好きでたまらない息子がいた。その人はあるとき息子に、ジオラマを作って電車を走らせてみようと提案し、息子といっしょに苦心してそれを作った。そして、すばらしくでき上がったジオラマを息子にプレゼントした。最初から息子のためだったのです。同じように、神は、み子キリストを愛し、み子キリストのために、彼に与えるつもりで、この世界と万物をいっしょに造られたということです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成