2026年2月26日(木)
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聖書一日一章 ヘブル人への手紙 3章
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私たちはキリストにあずかる者となっているのです。(14節)
パウロはここでは、「神の家」つまり神を信じる人々の共同体に対して、モーセは忠実に仕えたが、キリストは忠実に治められると言います。そして、そのキリストに治められる人々に、詩編95篇の言葉、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」を引用して、キリストへの従順を勧めます。これは、モーセの時代に人々が神に従わなかったために、荒野で40年間放浪した末に死んだことを踏まえての言葉だからです。
さて、14節では、「私たちはキリストにあずかる者となっているのです」と言います。ここで「キリストにあずかる」とは、どんな意味でしょうか。「あずかる」という日本語自体の意味がわかりにくいので、辞書で引いてみると、「関係する」、「分け前をいただく」、「受ける」とありました。それぞれ、「キリストに関係する者」、「キリストの分け前をいただく者」、「キリストを受ける者」となりますが、どうもピンと来ません。そこで、元のギリシャ語を調べてみましたら、「~を共有する」、「~に参加する」、「仲間になる」という意味でした。この中で「キリストを共有する」が一番適当だと思いました。つまり、「私たち」クリスチャンは「キリストを共有する者」だと言うのです。尊い方を「共有する」などと言うのは失礼な気がしますが、それはたしかにクリスチャンにとって事実です。パウロがローマ人への手紙8章10節で、「キリストがあなたがたのうちにおられる」と言うように、キリストを信じる者は、内にキリストがおられますし、そのことを実感しています。数え切れないキリストを信じる人に、キリストが内におられるとすれば、一人一人はほかの人とキリストを共有していることになります。これはすごいことです。キリストはそれを許してくださっているのです。
聖餐式もそのことを表しています。キリストのからだとされたパン、キリストの血とされたぶどう酒をいっしょにいただくのですから、キリストのからだと血を共有することにほかなりません。神のみ子であり、王の王である方を共有するとは、何という大胆、何という特権でしょうか。
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