2026年3月14日(土)
_____________________________________________________________________________
聖書一日一章 ペテロの手紙第一 1章
_____________________________________________________________________________
イエス・キリストを見たことはないけれども愛している。(8節)
ペテロはこの手紙を広く小アジア、現在のトルコに住むクリスチャンたちに書いています。ここでは、キリストから与えられた、天にある望み、試練でもなくならない喜び、旧約の預言者たちさえうらやむほどの救いについて述べ、聖なる者となるように、互いに愛し合って過ごすように励まします。
さて、8節では、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています」と言います。当時のクリスチャンたちがキリストを愛して、躍り出すほど喜んでいたことはよくわかります。しかし、私はここで意外に思いました。当時のクリスチャンたちがキリストを見たことがないということです。当時のクリスチャンたちは私たちよりずっとキリストに近い気がしていて、キリストを見たことがあるように錯覚していました。考えてみれば当然で、見たことがあるのは、生前から弟子だった人たちだけで、それ以外の人々は見たことがありません。それなのに、キリストを愛し、喜びにあふれていたというのです。私はキリストを信じていても、見たことがないために、ある心もとなさを感じていましたが、見たことがないのは、当時のクリスチャンたちも同じだ、それでもそれほど愛することができるのだなあと思いました。
パウロはコリント人への手紙第二5章16節で言います。「私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」「肉にしたがってキリストを知っていた」というのは、おそらくキリストについて、ナザレ出身の元大工で、癒しや悪霊払いをしていて、大勢の人が集まっているくらいの情報を得ていたことでしょう。「今はもうそのような知り方はしません」というのは、ダマスコへの途上でキリストの声を聞いて以来、キリストと霊的に交わっていて、その心をよく知っているということでしょう。私たちも、キリストを知る上でも、人を知る上でも、「肉にしたがって」、つまり、外見だとか、どこの出身だとか、何をしているとかといった情報ではなく、霊で、つまりその人の心を知るようにしようではありませんか。
テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944 鷹取 裕成
