目指すもの


私たちは聖書に立つキリスト教会ですが、世界中のキリスト教会が受け入れて来た使徒信条を受け入れています。

〔使徒信条〕
我は天地の創り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我等の主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生れ、ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、(陰府に下り、)三日目に死人の内よりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐し給えり、かしこより来たりて生ける者と死ねる者を審き給わん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命を信ず。
アーメン

※使徒信条は4世紀ごろに成立したもので、使徒から伝承されたものだという伝説からその名が来ている。
カトリック、正教、プロテスタントと問わず、広く世界中の教会で受け入れられている信条である。
※(陰府に下り、)というのは聖書にははっきり書かれていないので、私たちは厳密には考えない。

◎誓約

私たちは、洗礼を受ける人、入会する人には、次の誓約をしていただくことにしています。

①天地を造られた唯一の神を信じます。
②私はその神の目に罪人であることを認めます。
③イエス・キリストが神のひとり子であり、唯一の救い主であることを信じます。
④イエス・キリストが私のために十字架で死んでくださったので、罪を赦され、神の子どもにしていただいたことを信じます。
⑤神を信頼し、(聖霊の力に頼って、)神に従って行くことを決心します。
⑥できる限り礼拝を守り、教会のために自分のできることをし、また、自分の置かれている所で証をしたいと思います。

(1998.9.11 七道キリスト教会ミーティングおよび
1998.10.4 チャペル・こひつじミーティングにおいて決定)

◎教会の目標

私たちはほかの聖書的な正しいキリスト教会と同じく、次のような教会を目指しています。

1.天地創造の唯一の神、イエス・キリストの父なる神を、崇め、私たちの教会のあらゆる活動と個々人の全生活をもって、神のすばらしさを現わすこと。
2.イエス・キリストをすべての中心に置くこと。救いも、成長も、良い行ないも、教会の形成も、宣教も、キリストの働きとその恵みによることを信じ、伝え、現わすこと。
3.聖霊に頼ること。求道も、新生も、成長も、宣教も、教会形成も、クリスチャン生活も、聖書の理解も、証も、霊的な戦いも、聖霊のわざであることを認め、聖霊の力に頼り、期待し、祈ること。
4.聖書に基づくこと。神の御心により、キリストの啓示により、聖霊によって書かれた聖書を、誤りなき真理と信じ、学び、従うこと。
5.世の終わりの審判を恐れ、キリストの再臨を信じ、期待し、それまでの間、恵みとして与えられている教会の形成と、使命である(世界)宣教に励むこと。

そのような多くの教会の中にあって、私たちはとくに次のことを大事にしている。

1.聖書一日一章の励行。教理や神学に基づいて、クリスチャンのあり方を考えたり、教会を形成したりするのではなく、聖書を毎日読む、それも聖書全体を読むことによって、神の言葉に直接導かれて行くこと。
2.一人一人の自由を重んじること。だれもだれからも強いられないこと。一人一人ありのままの自分でおれること。これは、もちろん、わがままを奨励するものではなく、また、熱心な奉仕を否定するものではない。私たちはわがままや怠慢であってはならず、むしろ、神によく従うしもべとならなければならない。ここで言う自由とは、神と御言葉以外の、人間の考えや言葉や権威によって、強制されたり束縛されたりしないということである。聖霊に動かされて熱心に奉仕しようとする人の足を引っ張ることも、また、別の意味で強制であるから、それを避けることも含む。
3.教会のすべての人がキリストの羊として同じように大切にされること。つまり、この世の基準によって、ある人が重んじられたり、ある人が軽んじられたりしないようにすること、また、ある人が権威を持ったり、ある人が支配したりすることを避けることである。牧師も宣教と牧会の専門家以上のものではない。
4.一人一人を大切にする伝道。人々を十把一絡げに考えたり、人数や成果を求めたり、機械的な方法によったりすることなく、一人一人を神が送られた人として受け止め、その心を大切にし、愛を込めて伝道すること。

(2003.4.13七道・こひつじ合同ミーティングにて確認)

◎アシュラムの影響

アシュラムとは、インドの使徒と呼ばれたスタンレー・ジョーンズ博士が、インドの伝統的な修養法であるアシュラムを、クリスチャンの修養のために取り入れたものです。インドのアシュラムは、人々がグルーと呼ばれる指導者の下に何週間も何ヶ月も泊り込んで、グルーからじきじきに教えを受けるものですが、クリスチャンのアシュラムでは、イエス・キリストをグルーとしてキリストからじきじきに教えを受けようとします。そのためにプログラムは、一人で聖書を読んで、キリストの語りかけを聞く時間(静聴の時)を繰り返すことを中心に、その心備えをする開心の時、聞いたことをグループで分かち合う恵みの時、聞いたことに従うことを決意し、聖霊の満たしを受けてこの世に送り出されて行く充満の時などからなっています。他の修養会とは違って、講師の話を聞くのではなく、聖書から聞くこと、牧師も信徒も未信者も同じ立場で参加し、教えたり、戒めたりしないことを特徴としています。私たちの教会はアシュラムの影響を受けたクリスチャンたちによって始められましたので、その良い所を教会全体に取り入れ、かなりアシュラム的な教会になっています。

◎主に聞いて歩む教会

アシュラムの特徴であり良い点は、聖書を読んで、イエス・キリストの語りかけを直接聞こうとするところです。私たちは、キリスト教の伝統や偉大な指導者や神学や教団の方針に従うのではなく、聖書を読んで、キリストの語りかけを聞いて、それに従って歩んで行こうとしています。

〔伝統などに基づく教会〕

〔主に聞いて歩む教会〕


◎みんなで聞く教会

◎聖書一日一章

みんなが聖書を読んで、主に聞くことができるように、しかも聖書を偏りなく読むことができるように、聖書一日一章を励行しています。つまり、創世記から黙示録まで毎日1章ずつ、みんなで同じ章を読みます。その日の個所は週報に記しています。
礼拝もできるかぎり聖書一日一章に沿ってしています。
一人一人が聖書から自分で聞こうとすると、当然、解釈の間違いや取り間違いが出て来ます。それは仕方のないことですが、長く聖書一日一章を続けて行けば、聖書全体の教えがわかって来て、だんだんと間違いにも気づき、正しく受け止めることができるようになると信じています。

聖書一日一章を助け、励ますために、テレフォンメッセージを毎日提供しています。
TEL 072-255-0944

http://www.chapel-kohitsuji.jp/

◎十人十色

同じ聖書、同じ個所から聞いても、導きは十人十色です。
私たちはだれが正しくて、だれが間違っているかを議論しません。お互いに主がその人に語られたこととして受け止めます。
牧師が教えたり、先輩のクリスチャンが教えたりしません。
分かち合いの中で、それぞれが良い模範に従い、戒められ、みずから学んで行きます。

◎すべての人の考え・意見の尊重

導きは十人十色ですので、考えなどがばらばらになりますが、統一しようとはしません。
ですから、団体的に、組織的に動くことは苦手です。
そこで、ミーティングで意見を分かち合います。そして全会一致になったときだけ、教会の意思として確認します。意見を無理に一致させることはありません。一致しない場合は、そのままにして、さらにすばらしい考えが示されるように祈ります。
多数決は取りません。多数決は反対している人を、その意思に反して決議に従わせることになるからです。

◎活動の自由

みんなが主に聞き、導きを求めて行くと、ある活動をするように導かれることが起こって来ます。そのような活動は、自分の責任でする限り、まったく自由です。そのような自発的な活動が盛んに行なわれることが教会の力になります。教会の中に組織的な従属関係はないので、許可や承諾を得る必要はありません。
信仰の原則に反しないこと、人の迷惑にならないことは言うまでもありません。ひとりよがりにならないように、賛同する人々を募って、話し合い、いっしょに祈ることが大切です。
その活動を教会の働きとしてしたければ、ミーティングで賛同を得る必要があります。しかし、ミーティングは全会一致でなければ決めませんので、賛同が得られないことも少なくありません。その場合、賛同する人々だけで、自発的な活動としてすれば良いのです。

◎この世における解放区

この世は競争社会です。強い人、能力のある人、富める人、有名な人、家柄の良い人、権力のある人が重んじられる社会です。人間中心の価値観が支配しています。学歴、職業、身なり、家柄、人種などによる差別があります。
しかし、教会はまったく異なった社会です。すべての人は神に造られた尊い人であり、罪に陥っているけれど、キリストによって救われた、あるいは救われるべき人です。みな神に愛されている子どもであり、神の家族です。能力など関係ありません。能力はみんなのために役に立つように与えられているのです。
教会はこの世に存在していても、まったく異なった社会であらねばなりません。競争社会であるこの世で、敗れ、傷つき、絶望し、コンプレックスにさいなまれている人が、その価値観から解放され、ほっとできる場所でありたいと思います。
この世の影響は強く、教会の中にもこの世の価値観がはいって来ることが少なくありません。私たちはそういう価値観を排除するように戦って行きたいと思います。

◎すべての人が同じように大切にされること

それで私たちは神の子どもである一人一人が大切にされることを目指しています。とくに、この世では「小さい者」と見られる人が、大切にされることを願っています。
「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。」(マタイ18:10)
「あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな服装をした人が入って来、またみすぼらしい服装をした貧しい人も入って来たとします。あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、『あなたは、こちらの良い席におすわりなさい』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい』と言うとすれば、あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。」(ヤコブ2:2-5)
ある職業の人が「先生」と呼ばれ、他の人はそう呼ばれないのはおかしいので、すべての人を「さん」(親しみのある敬称)で呼ぶようにしています。もちろん牧師も「さん」付けです。

◎一人の人の救いに焦点を定めた伝道

私たちは伝道においても、一人一人の救いのために、そこに焦点を当ててしたいと思っています。
それは当たり前のことのようですが、考え方の違いで、神の国と教会を建てることが第一の目的で、そのために伝道すると考える教会もありますし、宣教命令に従う義務感からする人もあります。また、教会の教勢拡大ためや競争心と言った人間的な動機ですることもあります。
私たちは何かの目的のために伝道するのではなく、あくまで一人の人が救われるために、ただそれだけを願い、できるかぎりのことをしたいと思います。

◎大牧者に導かれる群れ

私たちは、教会に
大牧者であるキリストに導かれる群れ
というイメージを持っています。

◎牧師の役割

牧師だけが主の御心をよく知っていて、
信徒を教えるということはありません。
牧師も群れの一人です。

それでは、牧師の役割は何で
しょうか。それは、一人一人
が主に聞くことができるよう
に整えることです。スタッフ
あるいはコーチと言えます。