2025年3月27日(木)
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聖書一日一章 哀歌 3章
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主が命じられたのでなければ。(37節)
作者はここでも、エルサレムがバビロンの軍勢によって踏みにじられ、廃墟となったことを嘆いています。
この章には、およそ人間が経験するものとして考えられる限りの虐待や苦しみが出てきます。全部挙げてみます。「光のない闇」、「肉と皮をすり減ら」されること、「骨を砕」かれること、自分に向かって「陣を敷」かれること、「青銅の足かせ」、「熊」、「獅子」、「弓矢」、「苦菜」、「歯を砂利で砕」かれること、「灰の中で踏みつけ」られること、「くびき」、「捕らわれ」「踏みにじ」られること、「ごみ屑」とみなされること、「口を大きく開け」てののしられること、「穴に落と」され「石を投げつけ」られること、「そしり」と「嘲り」です。エレミヤ自身が経験したことか、身近な人が経験したことでしょう。私たちの中で、苦難の人生を歩んできた人でも、ここまではないでしょう。
虐待や苦しみについて、37節では、「主が命じられたのでなければ、だれが語って、このようなことが起きたのか」と言います。虐待や苦しみの原因を、日本人なら、運命だと片付けてしまうでしょう。善の神と悪の神を信じる人々なら、悪の神のせいにするでしょう。しかし、唯一で全能ですべてを支配される神を信じる人は、神以外の何かのせいにすることができません。38節では、「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出る」と言います。災いも幸いも神から出る、つまり、神が起こされることも、人間が神のみ心に逆らって起こすことも、神のご計画通りで、神の許しのもとで起こっているということです。愛なる神と矛盾するように思えますが、そうではありません。災いが愛なる神から出たことならば、人の益のためのものに違いありません。つまり、災いによって反省し、自分の問題に気づき、自ら変革し、神の祝福を受けるためです。ですから、39節以下で言います。「生きている人間は、なぜ不平を言い続けるのか。自分たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。自分たちの心を、両手とともに、天におられる神に向けて上げよう。」私たちは自分が不幸だと思うと、自分の人生がそのようであることを嘆きますが、むしろ自分の問題を尋ね調べ、悔い改めましょう。
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