2018年9月20日(木)

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聖書一日一章     エゼキエル書 16章

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血に染まっているあなたに、「生きよ」と言った。(6節)

神はエゼキエルを通し、エルサレムのことを、淫らな娘にたとえて話されます。つまり、捨てられていた赤子を拾い、手塩にかけて育て、着飾らせ、女王ともてはやされるほど美しく整えたのに、美貌を売りにして、だれとでも見境なく淫行を行ったと言われます。淫行とは偶像礼拝のことで、偶像の神々のために、「高き所を造った」、「上等の小麦粉をその前に供えた」、「子どもたちを殺し、これを焼いて、ささげ物とした」と言われます。また、エジプト、ペリシテ、アッシリアと姦通したというのは、そういう国々と同盟を結ぶために、その宗教を取り入れたことです。35節以下では、そのような淫らな娘を、淫行の相手によって裸にし、辱めると言われます。これは、頼った国々によってかえって略奪されることを指しているのでしょう。

神は、裏切ったエルサレムに対して、憤っておられるように見えますが、そうではありません。60節以下で言われます。「わたしは、あなたが若かった時にあなたと結んだわたしの契約を覚え、あなたととこしえの契約を立てる。あなたは、わたしが主であることを知る。」神の御心の根底にあるのは、愛です。すべては人々がご自身を知って、永遠の契約を結ぶためなのです。

ところで、たとえの中で、神は捨てられていた赤子に「生きよ」と言われました。神の言葉は、発せられたら、必ずその通りになりますので、「生きよ」と言われたら、必ず生きるはずです。私たちも生まれて来るときに、神の「生きよ」という命令によって生きたと思います。しかし、すべての人が、積極的な意味で生きているとは限りません。生きたくないが、死ねないので、生きているというつらい方もおられるでしょう。私自身、もともと、生きているのが何となくしんどくて、仕方なく生きているという感じでした。神の御心は、私たちが積極的な意味で生きることであり、私たちに「生きよ」と言っておられるのではないかと思います。しかし、積極的な意味で生きることは、言われて、頑張ってできることではありません。そのためには、生きたいと思う動機、楽しみや夢や生きがいや使命感が要ると思います。しかし、神が「生きよ」と言われる限り、その動機も与えてくださるはずです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成
神の恵みが豊かにありますように