2018年7月19日(木)

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聖書一日一章     エレミヤ書 10章

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この打ち傷はいやしがたい。(19節)

エレミヤは、異教の神々や習わしに惑わされている人々に、創造主なる神に目を向けるように訴えます。2節で神は、「天のしるしにおののくな」と言われます。これは、本当の天の神からのしるしではなく、占いや異教の預言者が言う「天のしるし」のことで、そんなものにおののかないようにと言われるのです。現在でも、人々は、占いや風水にこだわったり、ノストラダムスの大予言やマヤの予言に大騒ぎするのではないでしょうか。また、エレミヤは8節では、「彼らはみなまぬけ者で愚かなことをする。空しい神々の戒め―それは木にすぎない」と言います。人々は木にすぎない神の戒めをありがたがって聞いているのです。そんな異教の神々に比べ、創造主なる神は、なんとすばらしいことでしょう。12節のように、「御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた」方であり、並ぶ者なく、比べるものなく、大いなる方です。

さて、エレミヤは異教の神々や習わしに惑わされている人々に対して、「間抜け者」だとか、「愚かで無知だ」とか、「物笑いの種だ」と言っていますが、その通りだとは思いながらも、その言い方が見下げているようで、少々ひっかかるのではないでしょうか。しかし、そうではありません。19節で、「ああ、私は悲しい。この打ち傷は癒しがたい。まことに、これこそ私が負わなければならない病だ」と言います。人々の、惑わされ、罪を犯し、滅びに向かっている状態を、自分の打ち傷と感じ、痛みに耐えつつ、悲しみながら、どうしても自分が負わなければならない重荷と受けとめているのです。そういうエレミヤだからこそ、激しく叱責することができたと言えます。また、24節では、神に、「私を懲らしめてください」と祈っています。何も懲らしめられる必要がないのに、人々のことを思うあまり、人々が受ける懲らしめを自分の懲らしめと感じているのです。このエレミヤの姿は、キリストの姿を指し示しています。キリストは、私たちも含めて、ご自身を信じる人々を愛するあまり、その罪と永遠の刑罰を、ご自分の刑罰と感じ、「私を懲らしめてください」と祈られたのです。私たちの罪のために、キリストは私たち以上に痛み、悲しまれたことを覚えましょう。

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神の恵みが豊かにありますように