2024年10月5日(土)
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聖書一日一章 詩篇 149篇
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彼らの手には両刃の剣があるように。(6節)
作者はイスラエルの敬虔な人々に神を賛美するように、それも歌だけでなく、楽器や踊りをもって賛美するように呼びかけます。
さて、6節では、「彼らの口には、神への称賛があり、彼らの手には、両刃の剣があるように」と言います。「彼ら」とは敬虔な人々のことで、「神への称賛」つまり賛美は似合いますが、「両刃の剣」は似合いません。さらに、「それは、もろもろの国民を懲らしめるため、彼らの王たちを鎖につなぐため」と言います。敬虔な人々が「両刃の剣」を持つだけでなく、あたかも警察のように、神に従わない国々や王たちを捕らえ、懲らしめるというのです。まったく似合いません。だいたい、国々や王たちには勝てないでしょう。
とはいえ、パウロはコリント人への手紙第一6章2節で、「聖徒たちが世界をさばくようになる」と言います。当時迫害されていて何の力もなかったクリスチャンたちが、やがて世界をさばく大きな権威を持つようになるというのです。これは、王の王であるキリストとの関係でそうなるということでしょう。キリストは、何の権力もない人としてお生まれになりましたが、復活して、「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています」と言われたように、世界を治める権威を持たれました。やがて再臨されるときには、マタイの福音書24章30節で「偉大な力と栄光とともに来る」と言われるように、その権威を持って来られ、国々をさばかれます。そのとき、キリストを信じている人々は復活し、キリストと空中で会い、キリストにつき従います。つき従うということは、キリストが世界を治める手伝いをすることになります。ですから、「聖徒たちが世界をさばく」と言うのは、キリストの助手としてのことでしょう。しかし、たとえ助手であっても、さばく立場にいるためには、キリストがヨハネの福音書8章7節で、姦淫の女を罰しようとしている人々に、「罪のない者がまず石を投げなさい」と言われたように、罪のない者でなければなりません。私たちは罪深いままで、キリストの血によって赦され救われましたが、さばきの助手のためには、完全にきよめられなければなりません。今はそのきよめの過程だと思います。
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